第九回 HER2陽性乳がんの治療における副作用対策

乳がんサブタイプ別の最新治療 〜 初期治療編

中編までで、術前化学療法手術の前に抗がん剤で治療を行うことです。腫瘍を小さくしてから手術することで、より治療効果を高め、乳房を温存できる可能性を広げることができます。から手術、そして基本的な術後補助療法までの道のりをご説明してきました。後編では、その最新の治療法と、治療中・治療後の生活をサポートする実践的な情報をお伝えします。

副作用とのつきあい方──心臓のモニタリングを中心に

HER2陽性乳がん細胞の表面に「HER2」というタンパク質が多く存在している状態です。この特性に合わせた特殊な薬による治療が効果的で、より良い治療成績が期待できます。乳がんの治療で使われる薬にはそれぞれ副作用がありますが、患者さんに特にご理解いただきたいのが心臓への影響です。

ハーセプチンをはじめとする抗HER2薬HER2というタンパク質に狙いを定めて作られた薬のことです。通常の抗がん剤と違い、HER2陽性のがん細胞を選んで攻撃するため、副作用を減らしながら治療効果を高めることができます。は、心臓の筋肉にもわずかに発現しているHER2に作用してしまうことがあり、心臓のポンプ機能が一時的に低下する「心機能障害心臓が血液を全身に送り出すポンプ機能が低下した状態です。一部の抗がん剤やHER2治療薬の副作用として起こることがあり、定期的な検査で監視することが大切です。」を引き起こす可能性があります。頻度としては軽度のものを含めて数%〜十数%程度とされており、多くの場合は投薬を中断することで回復しますが、まれに重症化することもあります。

このため、長期間に渡って抗HER2薬を使用している間は定期的に心臓超音波検査(心エコー)超音波を使って心臓の形や動きをリアルタイムで観察する検査です。痛みがなく、放射線も使わないため、何度でも安全に繰り返し検査できます。を行い、左室駆出率(LVEF)心臓の左側の部屋(左室)から、1回の収縮で全体の何%の血液が送り出されるかを示す数字です。心臓のポンプ機能がどの程度働いているかを測る重要な目安になります。という心臓のポンプ機能を示す指標をモニタリングします。もしLVEFが一定の基準を下回った場合には薬の投与を一時的に中断し、心機能の回復を待ってから再開するかどうかを判断します。

日常生活の中で息切れや動悸、足のむくみ、急な体重増加といった症状に気づいた場合は、次の外来を待たずに早めに担当医に連絡してください。早期に発見できれば適切に対処できますし、多くの場合は治療を安全に続けることが可能です。

EC/AC療法で使われるアントラサイクリン系の抗がん剤強い効果を持つ抗がん剤の一種で、特に乳がんの治療によく使われます。一方で心臓に対する毒性があり、生涯に使える量に上限が決められています。(エピルビシンやドキソルビシン)にも心毒性があることが知られています。アントラサイクリン系の心毒性はトラスツズマブとは性質が異なり、累積投与量に関連した不可逆的な障害が起こり得るため、生涯に使える量に上限が設けられています。治療計画ではこの上限を超えないように設計されていますのでご安心いただきたいのですが、アントラサイクリン系の化学療法と抗HER2薬を順番に使うという流れには、こうした心臓への配慮が背景にあることを知っておいていただければと思います。

進行再発乳がんの治療など、長期間の投与が見込まれる場合、慶應病院のような総合病院では、循環器内科の専門医師が在籍していますので、心機能を専門医にモニタリングしていただけると非常に安心ですね。

パクリタキセルによる末梢神経障害

術前化学療法で広く使われるパクリタキセルは、手足のしびれやピリピリ感といった「末梢神経障害手足の先端にある神経がダメージを受けることで、指先や足の裏にしびれやピリピリ感が生じる状態です。一部の抗がん剤の副作用として起こることがあります。」を引き起こすことがあります。手の指先や足の裏に症状が出やすく、「手袋や靴下を履いているような感覚」と表現される方が多いです。

末梢神経障害は治療が進むにつれて徐々に強くなる傾向がありますが、治療終了後に時間をかけて改善するケースが大半です。ただし、一部の方では数か月から年単位で症状が残ることもあるため、日常生活に支障がある場合には担当医にご相談ください。薬の投与量の調整や投与スケジュールの変更で対応できることがあります。また、しびれに対する薬や漢方薬を併用することもあります。

皮膚や爪の変化

化学療法中には皮膚の乾燥、色素沈着(肌が黒ずむ)、爪のもろさや変色といった症状が出ることがあります。爪がはがれやすくなったり、爪の下に血腫ができたりすることもあり、見た目の変化に精神的な負担を感じる方もいらっしゃいます。

予防策としては、保湿剤をこまめに塗ること、爪を短めに切っておくこと、手袋をして爪を保護することなどが勧められます。女性であれば、マニキュアを使用して、爪の補強を行うことも効果的ですね。

最近では「冷却手袋・冷却靴下」を使って治療中に手足の末梢血管を収縮させ、薬剤の到達量を減らすことで爪障害を軽減する試みも行われていますが、効果に関しては賛否両論で、しっかりとしたエビデンスがないのが現状です。こうしたケアの詳細については、外来の看護師や薬剤師から具体的なアドバイスを受けられますので、遠慮なく聞いてみてください。

治療中・治療後の体力維持──運動と栄養

がんの治療中は体力が落ちやすく、だるさや倦怠感に悩まされる方が少なくありません。「治療中は安静にしていた方がいいのではないか」と思われるかもしれませんが、実は近年の研究では、治療中であっても無理のない範囲で適度な運動を行うことが体力の維持だけでなく、倦怠感の軽減、精神面の安定、さらには治療の完遂率向上にもつながることが示されています。

具体的には、1日30分程度のウォーキングや軽いストレッチ、ヨガなどの有酸素運動が推奨されることが多いです。ただし体調が優れない日に無理をする必要はありませんし、化学療法の直後で白血球が下がっている時期には感染予防の観点から人混みでの運動は避けるなど、注意すべき点もあります。担当医や看護師と相談しながら、自分に合ったペースを見つけていくのがよいでしょう。

栄養面については、特定の食品ががんに効くといった科学的根拠のない情報に振り回されないことが大切です。基本はバランスの良い食事をとることで、タンパク質、ビタミン、ミネラルを偏りなく摂取することが体力維持の土台になります。化学療法の副作用で食欲が低下したり味覚が変わったりすることがありますが、そのような時期には少量ずつ食べやすいものを回数を分けてとる、冷たいものや酸味のあるものが比較的食べやすいなど、工夫の余地があります。栄養士に相談できる体制がある病院も多いので、積極的に活用してください。

治療全体を見渡して──流れをもう一度確認する

ここまで述べてきた内容を大きな流れとしてとらえ直してみます。HER2については、まずIHC法組織に特殊な染色を施して、顕微鏡でHER2の有無を判定する方法です。検査結果が明確でない場合は、さらに詳しい検査(FISH法)を行うことがあります。FISH法特殊な技術を使ってHER2遺伝子の数を数える検査方法です。IHC法よりも正確な判定ができるため、HER2の状態が不明確な場合に用いられます。でHER2の状態を正確に評価します。HER2陽性と確認されたら、腫瘍の大きさやリンパ節転移の状況に応じた術前化学療法を開始し、化学療法と抗HER2薬を組み合わせてがんの縮小を図ります。

術前化学療法が終わったら手術を行い、摘出した組織の病理検査手術で取り出した組織を顕微鏡で詳しく調べ、がんの種類や性質、治療への反応状況などを診断する検査です。治療方針を決めるための重要な情報を提供します。でpCRかnon-pCR術前の抗がん剤治療を行った後でも、がん細胞が完全には消えていない状態です。この場合は術後に異なる種類の薬による追加治療が必要になります。かを判定します。pCRが達成できた方にはハーセプチン(またはフェスゴ)の維持療法を、pCRが達成できなかった方にはカドサイラ(T-DM1)ハーセプチンの進化版とも言える薬です。HER2を狙う薬と抗がん剤を組み合わせた構造になっており、より強力な治療効果が期待できます。を術後補助療法として使用します。いずれの場合も、ホルモン受容体陽性であれば内分泌療法ホルモン受容体陽性の乳がんに対して、女性ホルモンの働きを抑える薬を使う治療です。数年から10年単位の長期間続けることで、再発を防ぐ効果があります。を並行して行います。

この一連の流れは複雑に感じるかもしれませんが、それぞれの段階には明確な根拠があり、大規模な臨床試験のデータに基づいて組み立てられています。患者さんご自身が治療の全体像を理解しておくことは、不要な不安を減らし、治療に能動的に参加するためにとても役立ちます。

治療のタイムラインの目安

よく「治療はどのくらいの期間かかりますか」と聞かれます。もちろん個人差がありますが、おおよその目安としてお伝えしている典型的なスケジュールをご紹介します。

術前化学療法の期間はおよそ4〜6か月です。パクリタキセル+フェスゴを12週間(毎週投与の場合)、その後にEC療法複数の抗がん剤を組み合わせた化学療法の一種です。エピルビシンとシクロホスファミドという薬を組み合わせて使い、乳がんの治療に広く用いられています。を3〜4サイクル(3週間ごとで約9〜12週間)行うパターンが一般的です。術前化学療法が終わったら、体の回復を待って数週間以内に手術を行います。

手術後は傷の治りを待って術後補助療法を開始します。術後の抗HER2薬(ハーセプチン・フェスゴ、またはカドサイラ)は術前の投与期間と合わせて合計約1年間になるよう設計されています。放射線療法高いエネルギーの放射線を使って、がん細胞をターゲットに照射する治療です。乳房温存手術後は原則として必要な治療で、再発を防ぐのに役立ちます。は、乳房温存手術後には原則として必須です。また、乳房全切除後でも腫瘍が大きかった場合やリンパ節に多数の転移があった場合には、胸壁・鎖骨上リンパ節への照射が推奨されます。術後補助療法(抗HER2薬・内分泌療法)と時期を調整しながら並行して行われます。内分泌療法はこれらと重なりながら5〜10年間にわたって継続されます。

すべてを合わせると、活発な治療期間(化学療法や抗HER2薬の投与が行われる期間)はおおむね1年半前後、その後は内分泌療法と定期検診のフォローアップが続くという形になります。

BCWiseガイドを使用すると、一人一人の状況に応じた治療期間の大まかな流れが確認できますので、ぜひ参考にしてもらえればと思います。

定期検診で何を確認するのか

治療が一段落した後も、定期的な検診は欠かせません。一般的には治療終了後の最初の数年間は3〜6か月ごと、その後は6か月〜1年ごとに外来を受診し、診察や画像検査を行います。マンモグラフィ乳房に特化したX線検査です。乳がんの診断や治療後の定期検診で用いられ、小さながんも発見しやすいという利点があります。乳腺超音波検査超音波を使って乳腺の様子を観察する検査です。マンモグラフィと組み合わせることで、より正確ながん診断が可能になります。に加え、症状に応じてCTや骨シンチグラフィ放射性物質を含む薬を注射してから、その分布を画像化する検査です。がんが骨に転移していないかを調べるために用いられます。などが追加されることもあります。

抗HER2薬を使用していた方は、投与終了後も一定期間は心エコーでの心機能チェックを継続することが望ましいとされています。多くの場合、心機能は投与終了後に安定しますが、長期的なフォローアップのデータがまだ蓄積途中でもあるため、慎重に見守る姿勢が重要です。

知っておいていただきたいこと

HER2陽性乳がんの治療は、分子標的薬の登場以降めざましく進歩してきました。ハーセプチン、パージェタ、カドサイラといった薬剤が登場し、さらに近年ではトラスツズマブ デルクステカン(T-DXd、エンハーツ)という新世代の薬剤が転移・再発の治療で大きな成果を上げているほか、早期乳がんの領域でも臨床試験が進行中です。今後、術前・術後の治療選択肢がさらに広がっていく可能性は十分にあります。

治療に臨むにあたって大切なのは、ご自身の病気のタイプ(HER2の状態、ホルモン受容体の状態、腫瘍の大きさやリンパ節転移の有無など)を正しく把握しておくことです。これらの情報は治療計画のすべての土台になりますし、セカンドオピニオンを受ける際にもスムーズに話が進みます。

副作用や日常生活上の困りごとがあれば、遠慮なく医療チーム(担当医、看護師、薬剤師、栄養士、ソーシャルワーカーなど)に伝えてください。副作用のマネジメントは治療を安全に完遂するために不可欠であり、我慢を続けることが最善の選択であることはほぼありません。

HER2陽性乳がんの治療は、エビデンスの蓄積とともに選択肢が着実に広がっています。今後も新たな治療戦略の確立が期待される領域です。

※ 本記事は情報提供を目的としており、医療行為の代替となるものではありません。症状がある場合は必ず医療機関を受診してください。
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