こころのケア
抗がん剤治療後の脳機能の変化
抗がん剤治療が無事に終わり、画像検査でも問題なし。体力も少しずつ戻ってきた。それなのに、なぜか言葉がすぐに出てこない。昨日の会話の内容が思い出せない。本を読んでいても同じ行を何度も繰り返してしまう。こうした経験をされている方は、ご自身だけではありません。化学療法後(Chemo-therapy)によって起こる認知機能脳が行う記憶、判断、思考、注意、言語理解などの働きのことです。これらの機能が低下すると、日常生活で支障が出やすくなります。の低下は「ケモブレイン抗がん剤による化学療法後に起こる認知機能の低下のことです。記憶力が落ちたり、集中力が減ったり、言葉が出にくくなったりする症状が見られます。多くの場合、治療終了後数か月から1年程度で改善します。(Chemo Brain)」と呼ばれ、近年の研究で科学的にもその存在が確立されてきました。

ケモブレインの具体的な症状は多岐にわたります。もっとも多く報告されるのは短期記憶数秒から数分の間、情報を一時的に保持する記憶のことです。買い物リストを覚えておく、会話の内容を覚えるなど、日常生活で重要な役割を果たします。の障害で、たとえばスーパーに買い物に行ったのに何を買うつもりだったか忘れてしまう、料理中に火をかけていることを忘れるといったことです。次に多いのが集中力の低下で、テレビのドラマを最後まで追えなくなった、会議中に話の筋を見失ってしまうという訴えが典型的です。さらに、適切な単語を思い出せない「喚語困難知っている言葉や単語が思い出せない状態のことです。話す時に適切な言葉がなかなか出てこないという症状が起こります。」や、複数の作業を同時に進められなくなるマルチタスク複数の仕事や作業を同時に進めることです。ケモブレイン後は、この能力が低下して複数のタスクを一度にこなすことが難しくなることがあります。能力の低下なども含まれます。発症率については研究によって幅がありますが、化学療法を受けた患者さんの約17%から75%に何らかの認知機能障害が認められるとされています。多くの場合は治療終了後数か月から1年程度で徐々に改善しますが、一部の方では5年、あるいは10年以上にわたって症状が持続することも報告されています。
うつ症状との重なりが生む見えにくい問題
ケモブレインだけでも日常生活への影響は小さくないのですが、ここにうつ症状が加わると、問題はさらに複雑になります。乳がん治療中にうつ病気分が著しく沈んだ状態が続く心の病気です。やる気が出ない、何も楽しくない、眠れないなどの症状が見られ、医療の対象となります。やうつ状態気分が沈んでやる気が出ない状態のことです。病気とは限らず、ストレスや疲労が原因で一時的に起こることもあります。を経験する患者さんは全体の20%から30%とされ、ケモブレインと併発する頻度も高いのが現実です。
この二つが重なったとき何が起こるかというと、認知機能の低下そのものがうつ症状を悪化させ、うつ症状が深まるとさらに集中力や記憶力が落ちるという悪循環が生まれます。たとえば、以前はてきぱきと家事をこなせていた方が、献立を考えるだけで疲れ果ててしまい、「こんなこともできなくなった自分」への失望感から気分がさらに沈む。気分が沈むと何もする気が起きず、認知機能を使う機会そのものが減ってしまう。外来でお話を伺っていると、このような悪循環に陥っている方は想像以上に多いと感じます。

職場復帰という現実的な壁
認知機能の問題がもっとも切実に表れるのが、職場復帰の場面です。ある40代の患者さんは、事務職として復帰した直後、以前なら簡単に終わっていた報告書の作成に倍以上かかるようになったとおっしゃっていました。数字の転記ミスが増え、上司から注意を受けたことで強い自責感を覚え、出勤すること自体が苦痛になったそうです。
こうした状況に対しては、いくつかの実務的な工夫が役に立ちます。まずは復帰直後にフルタイムで働くのではなく、短時間勤務から段階的に勤務時間を延ばしていく方法です。職場の産業医や人事担当者と相談して、業務内容を一時的に調整してもらうことも有効です。具体的には、マルチタスクが求められる業務よりも一つの作業に集中できる業務を優先する、重要な会議の内容はメモやレコーダーで記録する、タスク管理アプリを活用してやるべきことを可視化するといった対策が挙げられます。

周囲への伝え方はどうすれば?
ケモブレインの症状を職場の同僚やご友人に理解してもらうのは、簡単なことではありません。「がんの治療が終わったのに、まだ体調が悪いの?」と思われるのではないかという不安を抱える方は多いですね。外見からはまったくわからない症状であるだけに、甘えや怠けと誤解されることへの恐れは深刻です。
私が患者さんにお伝えしているのは、すべてを詳しく説明する必要はないということです。たとえば「治療の影響で記憶力が一時的に落ちているので、大事なことは文書でいただけると助かります」というように、相手に求める具体的なアクションをセットにして伝えると、理解を得やすくなります。漠然と「頭がぼんやりする」と言うよりも、「複数の指示を一度に受けると混乱しやすいので、一つずつお願いできると確実です」と伝えるほうが、相手も対応しやすいわけです。
睡眠を整えることで症状は改善
うつ症状とケモブレインの両方に深く関わっているのが、睡眠の質です。化学療法後の患者さんには不眠や中途覚醒夜中に目が覚めて、その後眠れなくなる睡眠障害のことです。ぐっすり眠ることができず、疲労が蓄積しやすくなります。、早朝覚醒いつもより2時間以上早く朝目が覚めてしまい、その後眠れなくなる状態のことです。睡眠不足につながり、心身の疲労が増します。といった睡眠障害が高頻度で見られます。睡眠が十分にとれないと、脳内で日中の記憶を整理・定着させるプロセスが阻害され、認知機能の回復が遅れます。同時に、睡眠不足はセロトニン脳内で心の安定や気分の改善に重要な役割を果たす物質です。不足すると気分が沈みやすくなり、うつ状態につながることがあります。やノルアドレナリン脳内で集中力や注意力、やる気に関わる物質です。これが不足すると、やる気が出なくなったり集中できなくなったりします。といった神経伝達物質脳の神経細胞どうしの情報伝達を担う化学物質です。これらのバランスが崩れると、気分やしんどさ、集中力などに影響が出ます。のバランスを崩し、うつ症状を増悪させることがわかっています。
※ 化学療法の身体的な副作用管理については「第五回 トリプルネガティブ乳がん治療中の副作用対策」をご覧ください。
逆に言えば、睡眠の改善はうつ症状と認知機能障害の両方に良い影響をもたらす可能性があります。就寝前のスマートフォン使用を控える、毎朝同じ時刻に起床して体内時計をリセットする、寝室の温度や光環境を整えるといった睡眠衛生より良い睡眠のために日常生活で実践すべき習慣のことです。毎日同じ時間に寝起きする、寝室の環境を整えるなどの基本的な対策があります。の基本的な対策だけでも、数週間で変化を実感される方がいらっしゃいます。それでも改善が乏しい場合には、認知行動療法物の見方や考え方、それに基づく行動を変えることで、心の状態を改善する治療方法です。薬だけでなく、心理的なアプローチで症状を改善します。に基づく不眠治療(CBT-I認知行動療法に基づいた不眠症の治療方法です。薬だけでなく、考え方や行動を変えることで睡眠を改善していく治療です。)が有効とされています。

ホルモン療法との関係を見極めることも重要
乳がん治療後にはタモキシフェン乳がん治療後に長期間使用されるホルモン療法薬です。女性ホルモンの働きを抑えてがんの再発を防ぎますが、更年期のような症状が出ることがあります。やアロマターゼ阻害薬乳がん治療後に使用されるホルモン療法薬です。女性ホルモンを作る酵素の働きを抑えてがんの再発を防ぎますが、骨の痛みや気分の落ち込みなどの副作用が出ることがあります。などのホルモン療法女性ホルモンの働きを抑える薬を使ってがんの再発を防ぐ治療のことです。乳がん治療後は5~10年間の長期にわたり続けることが多いです。を5年から10年継続する方が多くいらっしゃいます。これらの薬剤は更年期様の症状を引き起こすことがあり、気分の落ち込みやイライラを感じることもあります。ここで重要なのは、今感じているうつ症状が薬剤の副作用なのか、治療後の心理的反応なのか、あるいはもともとのうつ病の発症なのかを見極めることです。
判定にあたっては、症状が出始めた時期とホルモン療法の開始時期との関連、薬剤の種類を変更した際の症状の変化、そして治療前のメンタルヘルスの既往歴を総合的に評価する必要があります。自己判断で薬を中断してしまうのは再発リスクを高めるため、必ず主治医と相談していただきたいと考えています。
家族のサポートが回復を後押しする
認知機能の回復において、家族による日常的なサポートの役割は見過ごせません。ここで大切なのは「代わりにやってあげる」のではなく、「一緒に取り組む」という姿勢です。たとえばご家族がスケジュール管理を全面的に引き受けてしまうと、患者さん自身が認知機能を使う機会が失われます。一方で、カレンダーを一緒に確認する、買い物リストを作るのを見守る、といったかかわり方であれば、本人の認知機能のリハビリにもなりますし、「支えられている」という安心感が心理的な回復を促進します。研究でも、社会的支援が充実している患者さんほど認知機能の回復が良好であることが示されています。

主治医だけではなく、心のケアの専門家の手助けを
ケモブレインとうつ症状が併存している患者さんの治療は、乳がんの主治医だけで完結するものではありません。精神科医や心療内科医との連携診療複数の診療科の医師が協力して、患者さんの治療にあたることです。ケモブレインとうつ症状の場合、がん専門医と精神科医が一緒に治療計画を立てます。が不可欠です。精神科医はうつ症状に対する薬物療法や認知行動療法の専門家であり、がん治療やホルモン療法の調整を担う我々と共同で治療に当たる必要があります。この二つの専門性が一つの治療計画のなかで統合されてこそ、患者さんにとって最善の選択が可能になります。
ケモブレインとうつ症状の併発は、がんそのものの治療とは異なる次元で患者さんの生活の質を大きく左右します。睡眠の改善、適度な運動、家族のかかわり方の工夫、そして職場環境の調整という多面的なアプローチに加え、精神科医と腫瘍医の協働による治療計画が、現時点で得られるエビデンスに基づく最も確かな回復への道筋です。
📖 乳がん経験者のメンタルヘルスケア完全ガイド(2/4)