乳がんサブタイプ別の最新治療 〜 初期治療編
トリプルネガティブ乳がんの治療戦略:診断から長期フォローアップまで
「ホルモン受容体もHER2も陰性」と言われたとき
「トリプルネガティブ乳がん乳がんの細胞表面に3つの重要な分子(ホルモン受容体とHER2タンパク)がすべて存在しない種類の乳がんです。全乳がんの約10%を占め、比較的若い年代で見つかることが多い特徴があります。」であることを告げられたとき、多くの患者さんはその聞き慣れない名称に戸惑いを覚えます。特に「トリプル」という響きから、何か三重に悪い条件が重なっているような、よくない印象を受ける方も少なくありません。
確かに、トリプルネガティブ乳がんは他のサブタイプと比較して、増殖のスピードや再発のリスクといった面で異なる生物学的特徴を持っています。しかしながら、現在はこのタイプの乳がんに対する研究や薬物の開発は急速に進展しており、この数年の間に治療の選択肢は飛躍的な広がりを見せています。そのため、すぐにがっかりしたり、失望することはありません。
本記事では、トリプルネガティブ乳がんと診断された患者さんが、いたずらな不安を抱くことなく前向きに治療へ臨めるよう、その定義から最新の薬物療法、そして治療後の長期的なフォローアップに至るまで、現在確立されている標準治療の全体像を丁寧に解説していきます。今回は肺や肝臓など、いわゆる遠隔転移がん細胞が血液やリンパの流れに乗って、肺や肝臓、骨など遠く離れた臓器に広がっている状態です。治療方針は遠隔転移の有無で大きく異なります。がない状態の患者さんを想定していますので、この点はあらかじめ確認を行っていただければと思います。

トリプルネガティブ乳がんとは何か
乳がんの細胞を顕微鏡で観察し、さらに免疫染色特殊な染料を使ってがん細胞の表面にどのような分子が付着しているかを顕微鏡で調べる検査方法です。乳がんの治療方針を決めるために非常に重要な検査です。という特殊な検査を行うと、がん細胞の表面にどのような分子が発現しているかを調べることができます。乳がんの治療方針を決めるうえで特に重要な分子が三つあります。一つ目はエストロゲン受容体(ER)乳がんの細胞表面にある受容体の一種で、女性ホルモンであるエストロゲンが結合する場所です。この受容体が陽性であれば、ホルモン療法という治療が効果を発揮します。、二つ目はプロゲステロン受容体(PgR)乳がんの細胞表面にある受容体で、女性ホルモンのプロゲステロンが結合する場所です。ER同様に陽性であれば、ホルモン療法が効果的な治療選択肢になります。、そして三つ目はHER2タンパク乳がんの細胞表面に存在するタンパク質の一種です。このタンパク質が過剰に発現している場合は、ハーセプチンなどの抗HER2薬という特殊な治療薬が効果を発揮します。です。エストロゲン受容体やプロゲステロン受容体が陽性であれば、女性ホルモンの働きを抑えるホルモン療法女性ホルモンの働きを抑える薬を使う治療方法です。がんの細胞がホルモンに反応して成長している場合に効果があり、エストロゲン受容体やプロゲステロン受容体が陽性の乳がんに使われます。が効果を発揮します。HER2タンパクが過剰に発現していれば、ハーセプチンなどの抗HER2薬HER2タンパク質の活動を抑えるための薬剤です。HER2が過剰に発現している乳がんの細胞の成長を阻害し、がんの進行を防ぎます。ハーセプチンがその代表例です。が使えます。ところが、この三つの分子がいずれも陰性、つまり「ない」状態のがんがトリプルネガティブ乳がんです。
トリプルネガティブ乳がんは全乳がんの約10パーセントを占め、比較的若い年齢層で見つかることが多い傾向があります。また、遺伝性乳がん卵巣がん症候群(BRCA1遺伝子変異)生まれながらに持つ遺伝子の異常が原因で、乳がんや卵巣がんになるリスクが高くなる症候群です。トリプルネガティブ乳がんとの関連が強いことが知られています。との関連が強いことも知られています。細胞の増殖スピードがやや速い場合が多く、しこりを自覚してから短期間で大きくなることがあるため、診断がついたときには「こんなに早く大きくなることがあるんですか?」と驚かれる方もいらっしゃいます。

ホルモン療法も抗HER2薬も使えないとなると、以前は化学療法抗がん剤を使ってがん細胞を縮小・消滅させる治療方法です。全身に行き渡る薬の投与により、目に見えない転移がんにも効果を及ぼすことができます。(いわゆる抗がん剤)しか有効な武器がありませんでした。しかし現在では、免疫チェックポイント阻害薬免疫細胞ががん細胞を攻撃するのを邪魔している仕組みを解除する新しい種類の薬剤です。患者さん自身の免疫力でがんと戦うのを助ける治療法で、トリプルネガティブ乳がんの治療成績を大きく向上させました。という新しいカテゴリーの薬剤が加わり、治療成績は大きく向上しています。
診断に用いる検査の流れ
乳がんが疑われると、まずマンモグラフィーや超音波検査で腫瘍の大きさや位置を確認し、針生検(コアニードルバイオプシー)細い針を使ってがんが疑われる部分から少量の組織を採取する検査方法です。採取した組織を詳しく調べることで、がんの種類や性質を判定できます。や吸引式組織生検特殊な吸引装置を使って乳房の組織を採取する検査方法です。針生検よりも多くの組織が採取でき、より詳しい診断が可能になります。によって組織を採取します。この採取した組織について病理医採取した組織を顕微鏡で詳しく調べて、がんの種類や悪性度を判定する医師です。治療方針を決める上で非常に重要な診断を行います。が詳細に分析し、がんの種類、グレード(悪性度)がん細胞の悪性の程度を示す指標です。グレードが高いほどがん細胞の増殖が速く、治療方針の決定に重要な情報となります。、そしてER・PgR・HER2の発現状態を調べます。HER2については免疫染色で2+(判定保留)と出た場合、FISH法がん細胞の遺伝子レベルで、HER2遺伝子が増幅されているかどうかを調べる検査方法です。HER2の判定が曖昧な場合に確定診断のために追加で行われます。やDISH法FISH法と同様に、がん細胞のHER2遺伝子増幅を遺伝子レベルで確認する検査方法です。より簡便で迅速に結果が得られるという利点があります。と呼ばれる追加検査で遺伝子レベルの増幅を確認します。これらの結果がすべて陰性であった場合に、トリプルネガティブ乳がんと確定診断されます。

加えて、腫瘍の広がりを評価するためにMRI検査やCT検査、場合によってはPET-CT検査を行い、リンパ節転移がん細胞がリンパ管を通じて、脇の下などのリンパ節に広がっている状態です。転移の有無は治療方針や予後を判定する上で重要な情報になります。や遠隔転移の有無を調べます。Ki-67がん細胞がどのくらい速く増殖しているかを示す増殖マーカーです。数字が高いほどがん細胞の増殖が速く、特にトリプルネガティブ乳がんでは高い値を示す傾向があります。という増殖マーカーの値も参考にされることが多く、トリプルネガティブ乳がんではこの値が高い傾向があります。80%とか90%というビックリするような数字も稀ではありません。
術前化学療法(ネオアジュバント療法)という考え方
トリプルネガティブ乳がんと診断されたとき、「まず手術でがんを取ってほしい」という気持ちになるのはとても自然なことです。目の前にあるがんをできるだけ早く体から取り除きたいという思いは、どなたにとっても切実でしょう。しかし現在の乳がん治療では、手術の前に薬物治療を行う「術前化学療法(ネオアジュバント療法)手術を行う前に、あらかじめ化学療法で腫瘍を縮小させる治療方法です。手術の範囲を小さくしたり、見えない転移がんを早期に制御したりする利点があります。」が非常に重要な役割を果たしています。
術前化学療法の目的は大きく分けて三つあります。一つ目は、薬物治療で腫瘍を縮小させることによって手術の範囲を小さくし、乳房を温存できる可能性を高めることです。たとえば、診断時に3センチメートルあった腫瘍が薬物治療後に画像上ほとんど見えなくなるケースは珍しくなく、乳房全摘手術が必要と思われていた患者さんが温存手術で済むことがあります。

二つ目の目的は、目に見えない微小な転移を早期に制御することです。乳がんの細胞は、しこりがまだ小さな段階であっても血液やリンパの流れに乗って全身に散らばっている可能性があります。手術を先に行って局所のがんを取り除いたとしても、すでに体のどこかに潜んでいる微小ながん細胞が後になって成長すれば再発として現れます。手術前から全身に薬剤を行き渡らせることで、こうした微小転移を早い段階でたたくことが期待できるのです。
そして三つ目、これが近年とりわけ注目されている理由ですが、手術前に薬物治療を行うことで「この患者さんのがんがどれくらい薬に反応したか」を直接評価できるという利点があります。手術で摘出した組織を病理の医師が顕微鏡で調べた結果、がん細胞が完全に消失していれば「病理学的完全奏効(pCR)術前化学療法後に手術で摘出した組織を調べた結果、がん細胞が完全に消失している状態です。トリプルネガティブ乳がんではpCRが得られると再発リスクが大きく低下することが知られています。」と呼ばれます。トリプルネガティブ乳がんにおいては、pCRが得られた場合とそうでない場合とでは、その後の再発リスクに明確な差があることがわかっており、pCRは治療効果の非常に強力な指標になっています。さらに、pCRが得られなかった場合には手術後に追加の薬物治療を行うという戦略が確立されており、一人ひとりの治療効果に応じた「個別化医療患者さん一人ひとりのがんの特性や治療への反応性に応じて、最適な治療方針を決める医療の考え方です。術前化学療法の結果に基づいて、追加治療を判断することで実現されます。」を実現するうえでも、術前化学療法は欠かせないアプローチとなっています。

化学療法の種類と治療スケジュール
トリプルネガティブ乳がんの術前化学療法では、複数の抗がん剤を段階的に組み合わせて使うのが標準的です。代表的なレジメン化学療法で使用する複数の抗がん剤の組み合わせと投与スケジュール(用量、投与期間、間隔)を定めた治療計画のことです。は、アンスラサイクリン系化学療法に使われる抗がん剤の種類の一つです。ドキソルビシンやエピルビシンなどがあり、トリプルネガティブ乳がんの術前化学療法で最初に使用されることが多いです。(AC療法やEC療法)とタキサン系化学療法に使われる抗がん剤の種類で、パクリタキセルやドセタキセルなどが含まれます。アンスラサイクリン系の後に続けて使用することで、より高い治療効果が期待できます。の薬剤(パクリタキセルやドセタキセル)を逐次的に使用するものです。
具体的には、まずドキソルビシン(またはエピルビシン)とシクロホスファミドの併用療法(AC療法またはEC療法)を2週間ごとあるいは3週間ごとに4回(約2~3か月間)行います。その後に、パクリタキセルという週一回投与の点滴治療を12回(約3か月間)続いて行うという流れが典型的です。パクリタキセルの代わりにドセタキセルを3週間ごとに投与する方法もあり、患者さんの状態やがんの特性によって主治医が最適なスケジュールを選択します。
治療スケジュール全体を見渡すと、術前化学療法はおよそ5か月から6か月に及びます。「半年近くも治療を続けるのか」と感じる方もいらっしゃるでしょうが、この期間に腫瘍が顕著に縮小していく様子を超音波検査などで確認できると、「薬が効いている」という実感が治療を乗り越える力になるという声は外来でよく耳にします。

ここまで、トリプルネガティブ乳がんの診断方法と、術前化学療法の基本的な考え方、そして使用される化学療法の種類についてお話ししてきました。次は、近年の治療成績を大きく変えた免疫チェックポイント阻害薬の登場と、治療を進める中で起こる腫瘍の変化、そして手術方法の選択についてご説明します。
📖 乳がんサブタイプ別の最新治療 〜 初期治療編(3/8)