はじめに ── なぜ「髪が抜けること」がこれほど苦しいのか
乳がんに対する化学療法抗がん剤を使って、がん細胞の増殖を抑える治療方法です。全身に作用する治療のため、脱毛などの副作用が起こりやすいという特徴があります。を受けることが決まった方の多くが、診断や手術と同じくらい、あるいはそれ以上に重く受け止める副作用治療によって、がん細胞を退治する作用の他に、正常な細胞にも影響が出ることで生じる望まない症状や現象です。脱毛、吐き気、疲労感などが挙げられます。があります。それが「脱毛」です。化学療法の説明をする外来で、表情がふっとこわばる方はとても多く、「がん」という言葉以上に「髪の毛が抜けてしまいます」という言葉に動揺される方も珍しくありません。この反応は決して大げさなものではなく、医学的・心理学的に十分説明のつくものです。
髪は女性にとって、単なる身体の一部を超えた存在です。朝、鏡の前で整える数分間は、社会に出ていく自分を確認する儀式のようなものですね。髪型が決まれば気分が上がり、寝癖がひどければ少し落ち込む。それくらい、髪は「自分らしさ」の象徴になっています。
そして同時に、周囲の人が私たちを認識するときの大きな手がかりでもあります。髪を失うことは、「がん患者である自分」が外見を通じて他者に伝わってしまうのではないかという恐れにもつながります。さらに言えば、ふさふさとした髪は「健康な日常」の象徴でもあるため、それが抜けていくプロセスは、病気が自分の体を侵食しているという実感を突きつけてくるのです。
この記事は、治療が始まる前の準備期間から、実際に髪が抜けはじめる最初の数週間までの「心の居場所」を一緒につくっていくことを目的としています。具体的なスケジュールや物の準備だけでなく、心がどう揺れるのか、その揺れにどう対処できるのかについてもお話しします。
治療開始までの2〜3週間にできる準備 ── 情報・物理・心の三つの柱
知っておきたい情報
まず押さえておきたいのは、すべての抗がん剤が同じように脱毛を起こすわけではないということです。乳がん治療でよく使われるアンスラサイクリン系特定の種類の抗がん剤のグループで、乳がん治療でよく使われます。脱毛や心臓への影響などの副作用が強い傾向があり、効果も高いとされています。(AC療法など)やタキサン系乳がん治療に使う抗がん剤のもう一つの重要なグループです。脱毛の頻度が高く、アンスラサイクリン系と同様に強い副作用を持つ傾向があります。(パクリタキセル、ドセタキセルなど)は脱毛の頻度が高く、投与開始からおよそ2〜3週間で抜けはじめることが多いとされています。
一方、ホルモン療法女性ホルモンの働きを抑えることで、ホルモンの影響を受けるがん細胞の増殖を防ぐ治療です。抗がん剤に比べて副作用は穏やかですが、長期間続ける必要があります。では多くの場合に明らかな脱毛は起こりませんが、毛が細くなる・全体的にボリュームが減るという形で気になる方もいらっしゃいます。CDK4/6阻害薬がん細胞の分裂増殖に関わる特定のたんぱく質の働きを止める薬です。比較的新しい治療薬で、従来の抗がん剤とは異なる作用を持っています。など一部の薬剤でも、薄毛として現れることがあります。ご自身が受ける治療で、どの程度の脱毛が予想されるか、主治医に具体的に尋ねてみてください。「全部抜けますか」「眉毛やまつ毛はどうなりますか」「いつ頃から生えてきますか」といった質問は、遠慮なくしていただいて構いません。
近年、頭皮冷却装置(スカルプクーリング)抗がん剤を投与する際に、専用のキャップで頭皮を冷やして毛根への薬の到達を減らし、脱毛を軽減する装置です。完全に脱毛を防ぐことはできませんが、髪のボリュームを保つ効果が期待されます。という選択肢も広がりつつあります。投与中に専用のキャップで頭皮を冷やし、毛根への薬剤到達を減らすことで脱毛を軽減する方法で、米国FDAアメリカの医薬品や医療機器を審査・承認する機関です。ここで承認された医療技術は、世界的に安全で効果があるものと見なされることが多いです。では2017年以降に複数の機器が承認されています。日本では一部の医療機関で導入されつつありますが、保険適用外であり、施設による導入状況の差が大きいのが現状です。完全に脱毛を防げるわけではなく効果には個人差がありますが、「髪のボリュームをある程度残せた」という方もいらっしゃいます。関心がある場合は早めに担当医へ確認されるとよいでしょう。

髪が抜ける前の準備
治療が始まる前に、髪を短めにカットしておくことをおすすめする場合があります。長い髪が一気に抜け落ちると、排水溝や枕に大量の毛が絡まり、精神的なショックが大きくなりがちです。あらかじめ短くしておくと、抜ける量の視覚的インパクトがやわらぎます。美容院で事情を伝えれば、配慮した対応をしてくれるところも増えています。
ウィッグは治療前に試着しておくと安心です。髪がある状態で合わせたほうが、元の髪色や髪質に近いものを選びやすいという利点があります。医療用ウィッグ医療用に開発された高品質のかつらで、長時間の使用に耐え、自然な外観が特徴です。通常のファッション用ウィッグより高価ですが、頭皮の負担を減らす工夫がされています。は数万円から30万円近いものまで価格帯が幅広く、自治体によっては購入費の助成制度を設けているところもあります。お住まいの自治体の制度については、加入されている健康保険組合の窓口や、お近くのがん診療連携拠点病院がん治療の専門的な知識と経験を持つ医師や看護師が常勤し、患者さんが信頼できる治療を受けられるように指定された病院です。相談支援センターなども設置されています。にあるがん相談支援センターがん患者さんやご家族が、治療のこと、経済的な問題、心理的な悩みなど、様々な相談ができる施設です。医療ソーシャルワーカーなどの専門家が対応します。でまとめて情報を得ることができます。帽子やスカーフも、季節や場面に応じていくつか用意しておくと、その日の気分で選べる自由が生まれますね。
心の準備
大切な心構えとして、「完璧な準備をしなくていい」ということです。情報を集めれば集めるほど不安が増してしまう方もいらっしゃいます。ウィッグも帽子も、とりあえず一つあれば十分で、あとは実際に必要になってから考えても遅くはありません。完璧に備えようとすると、まだ起きていない喪失を先取りして苦しむことになりかねないのです。
もう一つ大切なのは、信頼できる誰か一人に、脱毛への不安を言葉にして伝えておくことです。パートナーでも、親友でも、看護師でも構いません。自身の不安を口にするだけで、心の中の圧力が少し下がることがあります。
そして、もし気持ちの余裕があれば、髪があるうちに写真を撮っておくのもよいかもしれません。治療が終わって髪が戻ったとき、「あの時期を乗り越えた自分」を振り返る記録になります。また、切った髪をヘアドネーション切った自分の髪を、病気や事故で髪を失った人のためにかつらを作る団体に寄付する活動です。髪が役に立つという感覚が、治療による喪失感を少し軽くするのに役立つことがあります。団体に寄付するという選択をされる方もいて、「自分の髪が誰かの役に立つ」という感覚が、喪失をほんの少し意味あるものに変えてくれることもあるようです。
抜けはじめた瞬間の心の動き ── 「予期不安」と現実の間で
初回投与からおおよそ2週目に入る頃から、シャンプーや枕に残る毛の量が増えはじめ、3週目前後には髪を軽く引っ張るだけでするりと抜けてしまう状態に進む方が多くなります。ただし、開始時期や進み方には個人差が大きく、ぴったりこの日数で起きるわけではありません。眉毛やまつ毛は頭髪より少し遅れて、投与開始から4〜6週間後ごろから細くなる・抜けることが多く、頭髪のように一気に失われることは比較的少ないとされています。

頭髪が現実に抜けはじめた瞬間、心の中では複数の感情が同時に動きます。一つ目は純粋な喪失感です。分かっていたはずなのに、実際に目の前で髪が落ちていく光景は、頭で理解していたこととは別次元の衝撃を伴います。
二つ目は、コントロールを失う感覚です。治療を「選んだ」のは自分なのに、体に起きていることは自分の意志では止められない。この無力感は、がんという病気そのものに対する怒りや悲しみと重なり合うことがあります。
そして意外かもしれませんが、三つ目に「解放感」を語る方も少なくありません。「ずっと怖かったけれど、実際に始まったら、もう怖がらなくていいんだと思えた」と少し寂しそうに語る言葉は、外来でも繰り返し耳にします。予期不安まだ起きていない出来事や悪い状況を予想して、今から不安や恐怖を感じることです。脱毛をまだ経験していない段階で、実際の脱毛を想像して抱く不安のことを指します。という、まだ起きていない出来事への恐怖が、現実になった瞬間に形を変えるのです。
ここで強調しておきたいのは、どの感情も正常だということです。泣くことは弱さではありませんし、意外に平気だった自分に罪悪感を覚える必要もありません。感情には「正解」がないのです。
鏡を見るのが怖くなる時期との向き合い方
脱毛が進むと、鏡を見ることそのものが苦痛になる時期が訪れることがあります。これは「回避」ではなく、心を守るための正当な対処です。傷口にガーゼを当てるのと同じように、まだ受け止めきれない現実から一時的に距離を置くことは、心理学的にも認められたコーピング(対処行動)ストレスや苦痛なストレスに対して、人が自分の心と体を守るために用いる行動や心理的な工夫です。一見ネガティブに見える行動も、心を守るための有効な対処と認められます。の一つです。
時間が経つにつれて、多くの方が段階的に鏡との関係を取り戻していきます。最初は鏡を見る時間をごく短くして、帽子やウィッグの位置を確認するだけにとどめる。次に、家族など安心できる人の前で素の頭を見せてみる。そうした小さなステップを積み重ねるうちに、「これも今の自分なのだ」という折り合いのようなものが少しずつ生まれてきます。
大切なのは、「元の自分に戻る」ことをゴールにしないことかもしれません。治療前の髪型、治療前の外見に完全に戻ることを目指すと、そこに届かない自分を責めてしまうことがあります。生え始めは大抵は髪質が変わり、パーマがかかったような柔らかい髪質になることがほとんどです。また、治療を経た自分には治療前にはなかった経験が刻まれています。「いつもの私に戻る」のではなく、「今の私と折り合いをつけていく」という視点が、長い目で見ると心を楽にしてくれるように思います。
ここまでのまとめ ── 三つの大切なこと
ここまでお伝えしてきたことの要点は、次の三つに集約されます。
第一に、治療前の準備は「情報・髪が抜ける前の準備・心の準備」の三本柱で進めること、ただし完璧を目指さず、無理のない範囲で十分だということ。
第二に、脱毛が始まったときに湧きあがる喪失感・コントロール喪失感・解放感──これらの感情はどれも自然な反応であり、優劣も正解もないということ。
第三に、鏡を覆うことを含めた一見ネガティブに見える行動も、心を守るための有効な対処として認められるということ。
治療の目的はあくまでがんを制御することですが、その過程で生じる外見の変化への対応もまた、治療の質を左右する大切な医療行為と考え、現在は「アピアランスケアがん治療に伴う外見の変化(脱毛、皮膚の変化など)に対して、患者さんの心理的な負担を軽くするために行う医療行為です。ウィッグ、メイク指導、スキンケアなどが含まれます。」という言葉で多くの病院が取り組んでいます。
次回予告 ── 抜けてからの暮らしについて
今回の記事では、治療前の準備期間から髪が抜けはじめる初期段階までの心身の変化と対処についてお話ししました。しかし、脱毛にまつわる課題はここで終わりではありません。職場でどう過ごすか、子どもにどう説明するか、外出先での視線とどう付き合うか、そして髪が再び生えてくるまでの回復期をどう過ごすかなど、日常生活に根ざした問題が次々と出てきます。
今後の記事では、脱毛が進んだ状態での社会生活や家族との関わり方、ピアサポート同じような病気の経験をした患者さん同士が、体験談や生活のアドバイスをし合うことで、心理的に支え合う活動です。医学的な治療とは異なる形の支援になります。と専門医療の活用、そして発毛が始まる回復期の身体的・心理的変化について、具体的にお伝えしていく予定です。