第四回 乳がんを経験したあとの人生をどう歩むか〜心の回復と新たな自分を見つけるまで

こころのケア

「あの日」を境に変わった景色

治療中は目の前の手術や抗がん剤がん細胞を殺すための薬剤です。全身に作用するため、がんが転移している場合や手術では取り除けない部分に効果があります。治療中に様々な副作用が起こることがあります。に集中していて、ある意味では「やるべきこと」がはっきりしていました。ところが治療がひと段落すると、ふと立ち止まる瞬間が訪れます。自分はこれからどう生きるのだろう、再発治療後に、以前にがんがあった場所や別の場所に、がんが再び現れることです。治療後も定期的な検査を受けることで、早期発見が可能です。したらどうしよう、以前と同じ自分に戻れるのだろうか。こうした問いが静かに、しかし確実に胸の奥から湧いてくるのですね。

乳がんという経験は、身体の病気であると同時に、人生観そのものを揺さぶる出来事です。国内の調査では、乳がん治療を終えた方の約六割が「病気の前と後で人生に対する考え方が変わった」と回答しています。この変化は決してネガティブなものばかりではありません。ある方は「毎朝、目が覚めることがこんなにありがたいとは思わなかった」とおっしゃいましたし、別の方は「家族との時間を後回しにしていた自分に気づいた」と話してくださいました。こうした気づきは、心理学でいうレジリエンス困難な状況や辛い経験から回復し、さらに成長していく力のことです。心理学の分野で重要な概念で、誰もが持っている能力です。、つまり逆境から回復し、さらに成長していく力の芽生えでもあります。

レジリエンス(逆境からの回復力)を表現したイラスト

優先順位が静かに並び替わるとき

乳がんを経験された方がよく口にされるのが、「足りなかったもの」への気づきです。それは人によって異なります。仕事に没頭するあまり見落としていた子どもの成長かもしれませんし、自分自身の体調に耳を傾ける習慣かもしれません。あるいは、ずっと会いたかった友人に連絡する勇気だったということもあるでしょう。

この「並び替え」は自然に起こる心の作業であり、無理に急ぐ必要はありません。ただ、病気をきっかけに人生の優先順位を意識的に見直すことは、その後の生活の質に大きく関わってきます。実際に、治療後の生活で自分にとって大切なことを明確にできた方ほど、精神的な安定を保ちやすいというデータもあります。何を手放し、何を大切にするか。この問いに正解はありませんが、自分なりの答えを少しずつ探していくこと自体が、回復の過程そのものなのです。

社会への復帰は「階段」のように

治療後の社会復帰について、「以前と同じペースですぐに戻らなければ」と焦る方は少なくありません。お子さんの世話、家事、職場での業務。周囲からの期待もあるでしょうし、ご自身の「元に戻りたい」という気持ちも強いと思います。

けれども、社会的な役割への復帰はエレベーターではなく階段のようなものです。一段ずつ、自分の体力や気持ちと相談しながら上がっていくのが望ましい形です。たとえば職場復帰であれば、最初は時短勤務通常より少ない時間で働く勤務形態のことです。治療後に職場に復帰する際、体力や気持ちに合わせた段階的な復帰に用いられます。から始めて、数か月かけてフルタイム通常の労働時間(多くの場合1日8時間)で働く勤務形態のことです。時短勤務から段階的に移行することが推奨されます。に移行する方が多いですね。育児についても、パートナーや家族と役割分担を再調整しながら、できることを徐々に増やしていくアプローチが有効です。大切なのは、「以前と完全に同じ自分」を目指すのではなく、「今の自分に合った関わり方」を見つけるという発想の転換です。

乳がん経験後の人間関係の再構築と新しい関わり方

新しい扉を開くということ

興味深いことに、乳がん経験をきっかけにキャリアを見直したり、新しい趣味を始めたりする方が一定数いらっしゃいます。外来で伺った例を挙げると、長年ハイブランドの営業をしていた方が治療後に乳がん患者さんを援助するボランティアの資格を取得され、HPで発信を始められたというケースがありました。また、もともと料理が好きだった方が、治療中に栄養学に興味を持ち、食育に関わるボランティアを始めたという話もあります。

こうした変化は、単なる気分転換にとどまりません。心理学では「外傷後成長(ポスト・トラウマティック・グロース)大きな困難や辛い経験を通じて、精神的に成長し、新たな価値観や可能性を見出す現象です。心理学的な研究で確認されている現象です。」と呼ばれる概念がありますが、困難な経験を経て人間的に成長し、新たな可能性を見出す現象は科学的にも確認されています。もちろん全員がこうした変化を経験するわけではありませんし、変化しなければならないということでもありません。ただ、もし何か新しいことに心が動いたなら、それを小さくても試してみることは、自己実現の新しい道を開くきっかけになり得ます。

乳がん経験をきっかけにした新しい挑戦と自己実現のイメージ

経験を誰かの力に変える

乳がんを経験された方の中には、その経験を活かして他の患者さんを支えたいと考える方もいらっしゃいます。ピアサポート同じ病気や経験を持つ人同士が、お互いの気持ちや情報を共有し、支え合う活動のことです。医療者とは異なる視点からの支援が得られます。と呼ばれる活動がその代表例で、同じ病気を経験した方同士が語り合い、情報を共有し、互いの存在そのものが支えになるという関わり方です。

実際に、ピアサポート活動に参加している乳がん経験者は、参加していない方と比較して自己効力感自分は困った状況にも対処でき、目標を達成できるという感覚のことです。この感覚が高いと、ストレスに対処しやすくなります。(自分で状況に対処できるという感覚)が高いという研究結果があります。啓発活動として検診の大切さを伝える講演をされる方、SNSで治療中の日常を発信する方もいますね。こうした「他者への貢献」は、自分の経験に意味を見出すプロセスでもあります。つらかった時間が誰かの役に立つと感じられるとき、その経験は苦しみだけのものではなくなっていくのです。

「もしも」の不安と「いま」の充実のあいだで

再発への不安は、治療後何年経っても完全には消えないかもしれません。定期検査治療後に再発がないかを確認するため、定期的に行う検査です。乳がんの場合は、数年にわたって継続的に受けることが重要です。の前になると眠れなくなるという方、季節の変わり目に体調が揺らぐたびに不安がよぎるという方。これは異常なことではなく、大きな病気を経験した方にとってごく自然な心の反応です。

ここで大切になるのが、不確実な将来への不安と、今日という一日を充実させることとのバランスです。不安を完全になくそうとするのではなく、不安があることを認めたうえで、日々の暮らしに意識を向けていく。具体的には、定期検査をきちんと受けることで「やるべきことはやっている」という安心感の土台をつくり、そのうえで日常の楽しみや人との関わりに時間を使っていくという考え方です。マインドフルネス今この瞬間に意識を向け、判断せずに自分の気持ちや身体の状態をありのままに受け入れる心の練習法です。ストレス軽減に役立つことが科学的に示されています。の手法を取り入れて、今この瞬間に注意を向ける練習をされている方もいます。不安と共存しながらも、生活の豊かさを手放さないということは、十分に可能なのです。

ピアサポートと患者コミュニティの支え合いのイラスト

コミュニティがもたらすもの

乳がん経験者のコミュニティやサポートグループに参加することの効果は、多くの研究で示されています。孤独感の軽減、情報交換による安心感、そして「自分だけではない」という実感。オンラインのグループも含め、現在は参加しやすい環境が整ってきました。

ある患者さんは「治療中は医療者に頼っていたけれど、治療後は同じ経験をした仲間の言葉のほうが胸に響くことがある」とおっしゃいました。医療者が提供できる情報と、当事者同士が分かち合える感覚は質が異なるものです。どちらか一方ではなく、両方を上手に活用していくことが、長い目で見た心の安定につながります。

長期的なフォローアップで見落としてはいけないこと

乳がんの治療後は、再発の有無を確認するための定期検査が長期間にわたって続きます。身体的なフォローアップ治療後に、患者さんの状態を継続的に確認し、必要なサポートを提供することです。身体面と心理面の両方が対象となります。はもちろん重要ですが、それと同じくらい大切なのが心理社会的な支援患者の心の悩みや社会生活の課題に対応するために、心理士やソーシャルワーカーなどが提供する支援のことです。身体的な治療と同じくらい重要です。の継続です。治療直後には手厚かった心理的サポートが、年数が経つにつれて薄くなっていくことは珍しくありません。

病院によっては、定期検査の際に生活の質に関する質問票を活用し、睡眠の問題や気分の落ち込み、社会的な孤立感などを早期にキャッチする取り組みを行っています。必要に応じて臨床心理士心理学の専門知識を持ち、心の問題や悩みに対応する専門家です。患者さんの気持ちをサポートし、心理的な回復を助けます。ソーシャルワーカー患者さんが社会生活を営む際の様々な課題や問題について、相談に乗り、解決を支援する専門家です。生活保障や社会資源の情報提供を行います。との連携を図ることで、身体と心の両面から長期的な健康を支える体制といえるでしょう。

長期フォローアップと身体・心の両面からの健康管理体制

乳がんの経験は人生を大きく変えますが、その変化のなかには新たな価値観や人間関係、自分自身への理解の深まりといった、かけがえのない要素も含まれています。医学的なフォローアップを基盤としつつ、心理社会的な支援を継続的に確保していくことが、治療後の生活の質を高めるための鍵となります。

※ 復職や社会復帰の具体的な制度・手続きについては「第一回 知っておきたい制度・手続き・職場との向き合い方」をご覧ください。

※ 本記事は情報提供を目的としており、医療行為の代替となるものではありません。症状がある場合は必ず医療機関を受診してください。

📖 乳がん経験者のメンタルヘルスケア完全ガイド(4/4)

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