はじめに
まずはじめに知っておいていただきたいことは、「HER2陽性」と告げられたとき、多くの方がまずインターネットで調べます。もしもそこで「予後病気の今後の経過や成り行きを医学的に予想することを指します。「予後が良い」は治療後の見通しが明るいことを、「予後が悪い」は厳しい見通しを意味します。不良」「再発率が高い」といった言葉を目にした場合は、必ずしも真実ではなく、過去のデータに基づいた古い情報であるということです。
特に、2000年代初頭にトラスツズマブ(ハーセプチン)HER2陽性乳がんに対する世界で初めての抗HER2薬です。HER2タンパク質に結合して、がん細胞の増殖を止め、免疫細胞による攻撃を促進します。という分子標的薬がん細胞に特有のタンパク質などを狙い打ちする薬のことです。正常な細胞へのダメージを減らしながら、がん細胞を効果的に攻撃できるという特徴があります。が登場して以来、HER2陽性乳がんの治療成績は大きく改善しました。現在では「HER2という明確な標的があるからこそ、効果的な治療を組み立てやすいタイプ」と位置づけられています。
この記事では、HER2陽性乳がんとはどのような状態か、どのような検査で確認されるか、そして術前化学療法手術の前に、抗がん剤やその他の薬で全身的にがんを治療することです。腫瘍を小さくしたり、目に見えないがん細胞を叩いたりすることで、手術の成功率を高めます。から手術・術後補助療法手術後に、再発や転移を防ぐために行う追加的な薬物治療のことです。手術で取り除ききれなかった可能性のある微小ながん細胞に対抗します。に至る治療の全体像を整理してお伝えします。治療の流れを把握することで、担当医との話し合いや意思決定を、より主体的に進めることができるでしょう。
HER2陽性とはどういう状態なのか
まず「HER2」という言葉についてご説明します。HER2とは「ヒト上皮成長因子受容体2型(Human Epidermal Growth Factor Receptor 2)」の略称で、細胞の表面に存在するタンパク質の一つです。正常な細胞にもこのタンパク質はわずかに存在しており、細胞が成長したり分裂したりするときの信号を受け取る「アンテナ」のような役割を果たしています。
ところが、乳がん全体の約15〜20%の患者さんでは、このHER2タンパク質がん細胞の表面に存在する受容体で、細胞が成長・分裂する際の信号を受け取る働きをします。HER2陽性の患者さんではこのタンパク質がいつもより多く存在するため、特定の治療が有効になります。ががん細胞の表面に異常なほど多く発現しています。これを「HER2の過剰発現本来はあってよい物質が、通常より異常に多く増えている状態のことです。HER2陽性乳がんでは、このHER2タンパク質が何十倍、何百倍も増えてしまっているため、がん細胞が勢いよく増殖します。」と呼びます。アンテナが通常の何十倍、何百倍も立っている状態を想像していただくとわかりやすいかもしれません。アンテナが過剰にあると、増殖のシグナルを過剰に受け取ってしまうため、がん細胞の分裂が通常よりも速いペースで進んでしまいます。この性質のために、かつてはHER2陽性乳がんは他のタイプと比べて再発率が高く、予後が厳しいとされていました。
しかしながら、2000年代初頭にトラスツズマブ(商品名:ハーセプチン)という分子標的薬が臨床に登場したことで、状況は一変しました。ハーセプチンはHER2タンパク質にぴたりとくっつき、増殖シグナルが細胞内に伝わるのをブロックします。さらに、免疫の力を借りてがん細胞を攻撃する効果もあることがわかっています。この薬の登場以降、HER2陽性乳がんの治療成績は大幅に改善し、現在では「ターゲットが明確であるからこそ、効果的な治療を組み立てやすいタイプ」と捉えられるようになっています。

HER2陽性かどうかを調べる検査のこと
HER2が陽性かどうかは、生検疑わしい部分の組織や細胞をごく少量採取して、顕微鏡で調べる検査です。がんかどうか、またどのタイプのがんであるかを正確に診断するために重要な検査です。(組織の一部を採取する検査)や手術で得られたがん組織を使って判定します。検査法には大きく分けて二つの段階があります。
一つ目は「免疫組織化学法(IHC法)がんの組織を薄く切ったスライスに特殊な試薬を加えて、HER2タンパク質がどの程度あるかを色で見分ける検査です。0から3+の4段階で評価されます。」と呼ばれるもので、がん組織の薄い切片にHER2タンパク質を染め出す特殊な試薬を使い、染まり方の強さを0、1+、2+、3+の四段階で評価します。IHCで3+と判定された場合は、その時点で「HER2陽性」と確定します。一方、0または1+であれば「HER2陰性」です。
問題は2+と判定された場合です。2+は「境界域」という位置づけで、タンパク質の量だけでは白黒がつきません。そこで二つ目の検査として「FISH法HER2遺伝子そのものが増幅しているかどうかをDNAレベルで直接調べる検査です。IHC法で判定が曖昧な場合に追加して行われ、より正確な診断を可能にします。」もしくは「ISH法FISH法と同様に、HER2遺伝子が増幅しているかをDNA レベルで確認する検査法です。原理は似ていますが、FISH法より操作が簡単で費用効果に優れています。」を追加します。これはHER2遺伝子が実際に増幅しているかどうかをDNAレベルで確認する検査で、遺伝子の増幅が認められれば「HER2陽性」と判定されます。
外来で患者さんにお見せする検査報告書にはこうした数値やスコアが記載されていますので、自分がHER2陽性かどうかを確認しておくと、今後の治療の話がより理解しやすくなるでしょう。
HER2陽性乳がんの治療はどう組み立てられるのか
HER2陽性乳がんの治療は、一つの薬や一つの手技だけで完結するものではなく、いくつかの段階を順番に踏んでいく「治療計画」として設計されます。大きな骨格としては、「手術前の全身治療(術前化学療法)」、「手術」、「手術後の全身治療(術後補助療法)」の三つのステップがあり、それぞれの結果を見ながら次のステップの内容を決定していきます。

この治療計画の土台にあるのが、抗HER2薬HER2タンパク質に標的を絞った分子標的薬です。HER2タンパク質にくっついて、その働きをブロックしたり、免疫の力を借りてがん細胞を攻撃したりします。をいかに効果的に使うかという考え方です。HER2というはっきりとした標的があるからこそ、化学療法に抗HER2薬を組み合わせることで治療効果を最大化し、再発のリスクを減らすことができます。
転移や再発が見つかった場合には手術よりも全身の薬物療法が主体となり、抗HER2薬を軸にしながら複数の治療ライン(一次治療、二次治療、三次治療…)を段階的に進めていくことになりますが、この連載ではまず手術可能な早期〜局所進行のHER2陽性乳がんの治療の流れに焦点を当ててご説明します。
術前化学療法──なぜ手術の前に薬物治療を行うのか
「手術でがんを取るのが先ではないのですか」と疑問に思う方は多いと思います。HER2陽性乳がんでは、手術の前にまず化学療法と抗HER2薬を組み合わせた全身治療を行うことが現在の標準的なアプローチとなっています。この手術前に行う化学療法を「術前化学療法(ネオアジュバント療法術前化学療法の別名で、手術の前に行う全身的な薬物治療を指します。「ネオ」は新しい、「アジュバント」は補助的なという意味の言葉です。)」と呼びます。
術前化学療法の目的はいくつかあります。第一に、腫瘍を縮小させることで手術の範囲を小さくし、乳房を温存できる可能性を高めることです。たとえば、当初は4〜5cmあった腫瘍が術前化学療法によって画像上ほとんど確認できないほど小さくなるケースも珍しくありません。
第二に、全身に散らばっている可能性のある微小ながん細胞を早い段階からたたくことで、将来の再発リスクを下げることが期待できます。
そして第三に、術前化学療法に対するがんの反応を実際に観察できるという点があります。手術で取り出した組織を顕微鏡で調べることで、がんがどの程度消えたかを正確に評価でき、その結果に基づいて術後の治療方針を調整できるのです。
この「がんの反応を実際に見て次の治療を決められる」という利点は、HER2陽性乳がんの治療戦略において非常に重要な意味を持っています。

術前化学療法の具体的な中身
現在広く用いられているレジメン複数の抗がん剤を組み合わせた治療計画で、どの薬をどの量で、どのタイミングで投与するかを決めたものです。患者さんの状態に応じて、異なるレジメンが選択されます。(薬剤の組み合わせ)は、腫瘍の大きさやリンパ節転移がん細胞がリンパ管を通じてリンパ節に流れ込み、そこで増殖している状態です。がんがどれくらい進行しているかを判断する重要な指標になります。の有無によって使い分けられています。
腫瘍が3cm以下でかつリンパ節転移がない場合には、タキサン系薬剤パクリタキセルやドセタキセルなどの抗がん剤の総称です。がん細胞の分裂を阻止することで、がんの成長を抑える効果があります。(パクリタキセルやドセタキセル)という抗がん剤に抗HER2薬を併用する治療をまず行います。抗HER2薬はハーセプチン単剤や、現在はフェスゴというハーセプチンとパージェタの合剤を用いますが、その選択は病状によって主治医が勧めてくれることがほとんどです。
ある程度の大きさや、リンパ節転移がある場合は、その後(時には前に)にEC療法(エピルビシン+シクロホスファミド)もしくはAC療法(ドキソルビシン+シクロホスファミド)を行うという二段階のレジメンが標準的です。タキサン系薬剤とフェスゴの組み合わせでHER2を集中的に攻撃しつつ、EC/ACというアントラサイクリン系エピルビシンやドキソルビシンなど、特定の構造を持つ抗がん剤の総称です。DNA に直接ダメージを与えることで、幅広いがん細胞に対する効果があります。の化学療法でがん細胞全体にダメージを与えるというイメージです。
治療は通常数か月にわたって行われます。途中もしくは終了時に画像検査体の内部の様子を映像で見る検査の総称です。超音波検査やMRI、CTなどの方法があり、治療の進み具合を監視する際に使われます。(超音波やMRIなど)を行い、腫瘍がどの程度縮小しているかを確認しながら進めていきます。
術前化学療法がどのような薬剤で、どのようなスケジュールで行われるのかをご理解いただいたら、次はいよいよ治療の成果を判定する重要な局面へ進みます。手術後に病理医顕微鏡で組織や細胞を調べ、がんかどうか、どのタイプのがんであるかを診断する医師です。手術で取り出したがん組織を詳しく検査し、治療方針の決定に重要な情報を提供します。が行う詳細な検査と、その結果の読み方についてお伝えします。
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